SNS誹謗中傷の問題

SNS誹謗中傷の問題







木村さんが所属するプロレス団体・スターダムは23日、「当社所属選手木村花選手が本日5月23日逝去いたしました」と報告しました

木村さんはテラスハウスに2019年9月より入居。

新型コロナウイルスによる影響を受け、テラスハウスは撮影を停止していたが、最近ではSNSなどで誹謗中傷に苦しむ胸の内を発信しており、亡くなった23日未明にはInstagramで「愛してる、楽しく長生きしてね。ごめんね。」と投稿していた。


生前の木村さんがネット上の誹謗中傷に心を痛めていたことから、俳優の菅田将暉が主演を務め、SNSの恐ろしさについて描いた日本テレビ系ドラマ『3年A組 ―今から皆さんは、人質です―』(2019年1月期放送)に、再び注目が集まっている。

同作は菅田演じる美術教師・柊一颯が卒業まで残り10日となった「3年A組」の生徒を人質に取った衝撃的学園ミステリー。

最終話では、人質事件の発端である水泳部のスターだった景山澪奈(上白石萌歌)の自殺の原因は、SNS上での誹謗中傷だとし、柊が約7分間にわたる“魂の授業”を行った。


放送当時も大きな反響を呼んだ柊のメッセージを、改めて紹介する。

「お前らが浴びせた言葉の暴力が彼女の心を壊したんだよ!お前たちが景山の命を奪ったんだ。お前も!お前も!今まで散々正義感を振りかざしてきたくせに、分が悪くなった途端に子どものように責任転嫁を始める。

自分を正当化するのに必死だな、つまんねえ生き方するなよ、見苦しいんだよ、ふざけてるのはお前だよ、お前ら一度だって真剣になったことあるのか?逃げてんじゃねえぞ!

自分の親や友だちに面と向かって言えないことを見ず知らずの他人にぶつけるなよ。

お前のストレスの発散で他人の心をえぐるなよ、分かるだろ、俺の言いたいこと、お前らそこまで馬鹿じゃないだろ!

良いか、snsは誰もが気軽に繋がれる便利なツールだ。

気の合う友だちを見つけていつでもどこでもコミュニケーションがとれる、人によっては心の拠り所になるだろう、それも大切だ、否定はしない。

けど、その一方で、恐ろしい暴力装置にもなり得る。

だから刻んでほしいんだよ!右に習って吐いた何気ない一言が、相手を深く傷つけるかもしれない、1人よがりに偏った正義感が束になることでいとも簡単に人の命を奪えるかもしれないってことを。

そこにいる君に、これを見ているあなたに!一人ひとりの胸に刻んで欲しいんだよ。

他人に同調するより、他人をけなすより、まずは自分を律して磨いて作っていくことの方が大切なんじゃないのか?てかそっちの方が楽しいだろ!?

その目も口も手も!誰かを傷つけるためにあるわけじゃない!

誰かと喜びを分かち合うために、誰かと幸せを噛みしめるためにあるんじゃないのか!?

そうだろ!もっと人に優しくなろうぜ!もっと自分を大事にしようぜ!

俺の言葉がどれだけ届いているか、きっとほとんどの人間には痛くも痒くもないだろう、

でも誰か一人に、君一人でいい、感情に任せた言葉が、景山澪奈のような犠牲者を作るかもしれない、そう思って踏みとどまってくれたら今俺がここに立っている意味がある。

そしていつかきっと、その1人が10になって100になって1000人になっていく。

俺はそう信じてる!だからどうか、だからどうか、あなたに届いて欲しい。聞いてくれて、ありがとう。Let’s think.」

エキサイトニュースより引用



小説「新・人間革命」8巻 清流の章より

45  清流(45)

 あの事件から十数年後のことであった。

 六十年配の男が、ある男性に付き添われて学会本部にやって来た。男の顔色は悪く、全く生彩がなかった。沼山広司であった。

 沼山と一緒にやって来たのは、彼が面倒をみてもらっている縁者であった。

 本部では、この時、副会長であった関久男が応対した。沼山の姿は、哀れこのうえなかった。

 沼山は、意を決したように言った。

 「学会を除名になってから、すべて悪くなるばかりで、まるで地獄のようでした。一家も離散の状態です。今日は、学会の組織につけていただきたくて、お詫びにまいりました」

 同行してきた男性が口を挟んだ。

 「学会は、沼山がよい時には用いて、大変な状況になると解任し、除名にしてしまう。これはひどいではないですか」

 関は言った。

 「してはいけないことをして、学会にさんざん迷惑をかけたから、除名にしたのです。そうでしょ、沼山さん!」

 「はい、その通りです」

 沼山が答えると、同行の男性は怒りを含んだ声で、つぶやいた。

 「そんなこと、聞いていなかったぞ」

 沼山は、「お詫び」と言いながら、縁者にも、自分の都合のよいように、事実を歪曲して伝えていたのであろう。そこに、彼の心根のずるさがあった。

 沼山は、自分の非を棚に上げ、担当の副理事長を殴打までした人間である。

 それが、ともかく本部まで詫びに来た背景には、筆舌に尽くしがたい苦悩があったにちがいない。

 まさに「始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」との御聖訓通りの姿である。

 関は、沼山を前にして、仏法の厳しさを、改めて痛感するのであった。

 一方、妻の三重子は、後年、低俗な週刊誌などに登場し、山本伸一の事実無根のスキャンダルを流すようになった。

 そこでは、自分が学会の被害者であるかのように装い、聞くに堪えない中傷と誹謗を重ねたのである。

 彼女は、信仰の根本である御本尊さえも不敬するに至っていた。

 民衆の時代を開く、学会の前進を阻もうとする勢力は、″団結の要″である会長山本伸一を狙い撃とうとする。

 その勢力にしてみれば、沼山三重子の″告発″は、いかに嘘で塗り固められていようとも、学会攻撃の貴重な武器になると考え、彼女を巧妙に利用したのであろう。


46  清流(46)

 学会を叩きつぶすためには、手段を選ばず、利用できるものは何でも利用するというのが、民衆の力の台頭を阻止しようとする勢力のやり方である。

 そこに、広宣流布の戦いの熾烈さもある。

 ところで、不祥事を起こし、学会に迷惑をかけて、退転していった人間は、必ずといってよいほど、学会を逆恨みし、攻撃の牙を剥くものである。

 それは、一つには、学会を利用し、果たそうとした野望が実現できなかったことから、学会を憎悪し、嫉妬をいだくためといえる。

 また、不祥事を起こした、脱落者、敗北者の″負い目″″劣等感″を、拭い去ろうとする心理の表れともいえる。そのためには、自己を正当化する以外にないからだ。

 そこで、学会や山本伸一を「巨悪」に仕立て上げ、自分を、その被害者、犠牲者として、「悪」と戦う「正義」を演じようとするのである。

 この本末転倒の心の在り方を、「悪鬼入其身」というのである。

 しかし、そうした輩の中傷は、なぜか、自分の犯した悪事と同じことを、学会が犯していると吹聴するケースが多い。

 たとえば、金銭問題や異性問題を起こして退転していった者の手にかかると、学会は、そうした問題の温床であり、伸一は、その元凶ということになる。

 「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」といわれるが、人間の思考も、自分の境涯の投影であるからであろう。


 そして、退転者の流すスキャンダルを鵜呑みにする人もいれば、本質を見抜き、一笑に付す人もいる。

 この反応にも、その人の境涯、人格、人間観が端的に表れる。人間は、常に自分を基準にしてしか、他者や物事を推し量ることができないからである。

 ともあれ、ものに憑かれたように、憎悪を剥き出して、伸一と学会への中傷を重ねた沼山三重子であったが、その末路は、無残この上なかった。

 彼女は、なんと、晩年になると、かつて、ともに活動した学会員のところへ電話をしてきては愚痴をこぼし、学会に戻りたいと語るようになった。

 彼女からの電話を受けたメンバーは、一様に驚きと怒りを覚えた。

 ある婦人部員は、こう叫ぼうとした。

 「ふざけないでよ! 学会を裏切り、さんざん迷惑をかけておいて」

 しかし、言葉にはできなかった。三重子の声は、あまりにも苦しそうな、うめくような声であったからだ。哀れさが先に立ってしまったのである。


47  清流(47)

 ある時、沼山三重子は、かつての婦人部長である、清原かつを訪ねて来た。

 清原は、その変わり果てた姿に、息を飲んだ。

 体はやつれ、顔色は青黒く、生気は全くなかった。

 三重子が、弱々しい声で、喘ぐように語ったところでは、癌に侵され、しかも、転移してしまっているとのことであった。

 彼女は、深々と頭を垂れて言った。

 「学会にご迷惑をおかけして、本当に申し訳ございませんでした。もう一度、もう一度、学会員にしてください……」

 病に苦しみ、死を見すえた彼女は、学会に敵対し、仏法に違背した罪の深さに、気づかざるをえなかったのであろう。

 仏意仏勅の団体である創価学会の組織を撹乱し、反旗を翻した罪はあまりにも重く、限りなく深い。

 大聖人は「法華経には行者を怨む者は阿鼻地獄の人と定む」と仰せである。

 かつて教学を学んだ彼女は、病苦のなかで、わが身の罪業の限りない深さに気づき、恐れおののき、地獄の苦にあえぎ続けていたにちがいない。しかも、その業苦は、生々世々にわたることであろう。

 清原は、哀れ極まりない沼山三重子の姿を目の当たりにすると、胸が締めつけられ、怒る気にもなれなかった。そして、あまりにも厳しい仏法の因果に慄然とした。

 清原は言った。

 「懺悔滅罪のお題目よ。ともかく、命ある限り、御本尊に、罪をお詫びし抜くしかないでしょ」

 しかし、ほどなく三重子は他界している。無残な末路といわざるをえない。

 人は騙せても、自分は騙せない。また、自分は騙せても、仏法の法理をごまかすことは絶対にできない。

 生命の因果の法則の審判は、どこまでも厳格であり、峻厳であることを知らねばならない。