最後のセンター試験

最後のセンター試験





1月18日、19日に今年で最後のセンター試験が実施されました

来年から始まる大学入学共通テストは、思考力を問う新しい傾向の出題が増え、

問題文はセンター試験より増える見込みで、予備校関係者は「戸惑う受験生もいるだろう」とみています

この試験の結果で偏差値が決まります。

偏差値というのは志望校のレベルと自分の学力を数値によって距離を計ることが可能なため、非常に便利な基準です

しかし偏差値を基準に入れる大学が決まったり、偏差値が高い人たちを頭が良いと思われることに疑問を感じるひともいると思います


僕は偏差値という言葉を聞くと、

僕の好きなアニメ、ドラゴンボールの世界の「戦闘力」という数値を思い出します

戦闘力はスカウターという装置によりは測定され、相手の強さがわかりやすくなります

ナメック星に到着時の悟飯たちZ戦士とフリーザ軍の戦闘力を比較してみます


Z戦士

悟飯     1500

クリリン 1500

ベジータ  2万4000

悟空5000~18万

  フリーザ軍

キュイ    1万8000

ドドリア  2万4000

ザーボン 2万4000

    ギニュー特戦隊

ギニュー 12万

グルド        1万

リクーム    4万5000

バータ  4万5000

ジース        4万5000

  フリーザ 53万


なぜこれだけの戦力に差があったにもかかわらず、フリーザ軍は敗北したのか?

それはスカウターの戦闘力の数値を過信するあまり、完全に油断していたことも理由の一つだと思います

ドドリアがベジータに言った言葉

「あいつの戦闘力は1万8000がやっとだった」

またギニュー特戦隊のバータは悟空に対して言った言葉、

「こいつ戦闘力 たったの5000しかないぞ」が象徴しています。

それに対して地球でZ戦士と激闘を繰り広げたベジータは

「ナッパよ、スカウターをはずせ」

「こいつらは闘いに応じて、戦闘力を変化させるんだ。

こんな数字は、もうあてにはならん」


とあるように

スカウターの弱点に気づいていたようです

フリーザ軍が相手を戦闘力で判断するように、昔の僕も偏差値を重視するところがありましたが

この10年間のなかで僕よりはるかに、英会話が上手かったり、歴史に詳しかったり、

また文章が上手く、仕事ができる、強いやつにたくさん出会い

圧倒的な力の差を見せつけられてきました

ではこれからの教育はどのようなことが求められてくるでしょうか?

そのヒントが新人間革命27巻 若芽の章にありますので、ご紹介します


新人間革命27巻 若芽の章より

創価女子中学・高校が開校した一九七三年(昭和四十八年)の五月、国際教育到達度評価学会(IEA)が主催した「国際理科テスト」の結果が発表されている。日本は、小学校(参加十六カ国)、中学校(同十八カ国)ともに、スウェーデンやアメリカ、イギリスなどを凌ぎ、トップの成績であった。

 しかし、もろ手を挙げて誇れる状況では決してなかった。当時、「知育偏重」「詰め込み教育」などの指摘が繰り返されていたように、人間教育は忘れ去られていたからである。

 学歴偏重から、国立や有名私立大学の付属中学校、中高一貫の有名校への受験が過熱化し、進学塾通いや模擬テストに追われる小学生が少なくなかった。その学習は、ともすれば暗記中心の詰め込み主義となっていた。しかし、学校の授業だけでは志望校への合格は難しいことから、それが歓迎されていたのだ。

 さらに、学校教育でも、学習内容は次第に盛りだくさんになり、一方で、授業についていけない児童も増えていたのである。

 また、都市開発などによって、遊び場は失われ、皆で遊ぶ子どもたちの姿は、ほとんど見られなくなっていた。児童の体格はよくなっているにもかかわらず、体力・運動能力は停滞の傾向にあり、さらに、虫歯や喘息なども増加していたのだ。

 学齢期にあたる小学生は、学校生活や交友関係のなかで、社会への適応力を培っていくとともに、知的興味も増し、思考力も一段と発達する年代である。また、体力的にも基礎をつくる大切な時期といってよい。

 過熱化する受験競争のなかで、知育ばかりが重視され、徳育、体育はなおざりにされていたのだ。それによって教育は、大きな綻びを見せ始めていたのである。

 教育の根本には、人間をいかにとらえるかという、正しい人間観がなければならない。

 16  若芽(16)

 児童の多くの親たちは、″有名中学に入ることが、偏差値の高い有名大学に進むことにつながり、それが一流企業など、社会的評価も高く、高収入で安定した職業に就く道である。そして、そこに人生の幸福がある″との考えに立っていたのである。

 しかし、社会は常に変化を遂げ、企業の永続的な安定を保証するものなど何もない。希望する企業に入ったとしても、必ずしも、希望する仕事に就けるとは限らない。また、長い人生にあっては、人間関係で苦しむこともあれば、病に倒れることもあろう。

 したがって、子どもたちが幸福を築き上げるには、知識だけでなく、どんな事態に遭遇しようが、怯まずに困難を乗り越えていける精神の力や知恵、向上心、挑戦心などを培うことが大切な要件となる。そして、そのための基盤をつくる時代の始まりが学齢期であると、山本伸一は考えていたのである。

 そもそも、牧口常三郎の創価教育学は、教育の目的は、子ども自身の幸福にあるとし、″どうすれば生涯、幸福生活を送らせることができるか″をテーマにしている。


 その幸福生活を牧口は、「価値を遺憾なく獲得し実現した生活」であると定義した。つまり、自身のなかの無限の創造性を開花させて、価値創造の喜びの人生を歩むことが、幸福生活であると考えたのである。

 したがって彼は、知識の切り売りや、暗記中心の「詰め込み教育」に厳しい眼を向け、次のように述べている。

 「教育は知識の伝授が目的ではなく、学習法を指導することだ。研究を会得せしむることだ。知識の切売や注入ではない。自分の力で知識することの出来る方法を会得させること、知識の宝庫を開く鍵を与へることだ。労せずして他人の見出したる心的財産を横取りさせることでなく、発見発明の過程を踏ませることだ」

 教育は、知識を与えることを目的とするのではなく、自分で考え、自分で得た知識を生かしていく方法を会得するためにあるのだ。

 17  若芽(17)

 「詰め込み教育」を見直して、「ゆとり教育」をめざすべきであるという意見は、一九七三年(昭和四十八年)ごろには、次第に大きな声になりつつあった。

 山本伸一は、「ゆとり教育」を検討してみるのもよいが、より重要な問題は、″いかにして、子どもに学習方法をしっかり身につけさせるか″であると考えていた。

 児童が勉強への興味、関心をいだき、自ら学べる素地をつくらなければ、「ゆとり教育」は、結果的に、学力の低下をもたらすだけになりかねないからである。ゆえに彼は、初等教育の新しい道を開こうと、創価教育を実践する小学校の創立を決断したのだ。

 七四年(同四十九年)七月にスタートした東京の創価小学校設立準備委員会は、創価大学・創価学園の理事や教職員、小学校に勤める教育部員などで構成された。

 その二カ月後の九月には、関西にも、創価女子中学・高校の教員を中心に、小学校の設立準備委員会が発足した。創価学園の東西で小学校設立への準備が開始されたのである。

 この年、伸一は、中国とソ連を初訪問している。中国の北京では、新華小学校を訪れ、授業を参観。上海では、小学生の課外活動センターである「少年宮」を訪問し、子どもたちの心温まる歓待を受けた。また、ソ連では、モスクワ六八二小・中学校、課外活動の場である「ピオネール宮殿」も訪れた。世界の初等教育の現場を視察して、子どもたちと交流を図り、さまざまな角度から小学校の在り方を考えてみたかったのである。

 そのなかで彼は、創価小学校は日本一国という視点ではなく、世界の平和に貢献できる、世界市民を育てる学校にしなければならないとの思いを、強くするのであった。

 フィリピン独立の父ホセ・リサールは、自著の小説のなかで、登場人物に、未来には「人間はすべて世界市民になる」と語らせている。伸一は、世界の良心ともいうべき人びとの理想を、実現するための創価教育であると、確信していたのである Accent 6;\