おうちde御書 【四条金吾殿御返事】

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「四条金吾殿御返事」は、日蓮大聖人が佐渡流罪中に、鎌倉の門下の中心者である四条金吾に送られたお手紙で、別名を「煩悩即菩提御書」という。

御執筆の時期は、文永9年(1272年)5月と伝えられてきたが、翌文永10年(1273年)5月とも考えられる。

遠路はるばる佐渡まで大聖人を訪ねてきた金吾が鎌倉に帰った後、訪問のお礼の意を込めてつづられたと推察されます

本抄を送られた当時、日蓮大聖人とその門下は、まさに窮地といえる状況にあった。

 文永8年(1271年)9月12日、大聖人は幕府権力からの弾圧である「竜の口の法難」に遭われ、その後、死罪に匹敵するような佐渡への流刑(佐渡流罪)に処された。

 行き着いた佐渡・塚原の地で、大聖人に与えられた住居は荒れ果てた三昧堂(葬送用の堂)。厳寒にさらされ、衣類・食料の欠乏など、厳しい環境下に置かれた。「竜の口の法難」と「佐渡流罪」は、命にも及ぶ最大の迫害であった。

 さらに弾圧は門下にも及び、追放や所領没収などの処分を受けた弟子たちの多くが、仏法に疑いを起こして退転していく。

 日本社会も混沌としていた。同5年(1268年)、蒙古(当時のモンゴル帝国)への服属を求める国書が幕府に届く。同9年(1272年)には、北条一門の内乱が起こり、鎌倉と京都で戦闘が行われる(二月騒動)など、国中で不安と緊張が増していた。

 その中で、不退転の信心を貫いたのが四条金吾だった。竜の口の法難では、自身の命を顧みず、刑場に向かう大聖人にお供し、その後も大聖人の流罪地・佐渡を訪ねるなど、師を徹して支え、守り抜いたのである。

弟子たちが置かれた状況を踏まえ、大聖人は拝読御文で、「法華経の信心を・とをし給へ」と仰せになっている。

何があっても、御本尊への信と祈りを貫き通す、「持続の信心」の大切さを示されたのである。

“摩擦熱で火を起こすためには、休みなく作業しなければならない”という例を挙げ、信心もまた、途上で手を抜くことなく、地道に実践を貫くことが大切であると述べられている。

 さらに、「強盛の大信力」を奮い起こして、弾圧が続く鎌倉で、そして国中で、「法華宗の四条金吾・四条金吾」と称賛される存在になりなさいと呼び掛けられている。

 社会の厳しい現実から逃げるのではなく、戦い、勝つのだ!――信心根本に苦境を打開し、仏法の力を証明するよう、真心の励ましを送られた箇所である。

 現代の私たちに当てはめれば、混迷する社会の荒海の中で、「創価学会の○○さん」として、周囲から信頼され、希望と安心を広げる人間に成長する生き方を教えられた、大切な指標である。