世界発の有人宇宙飛行

世界発の有人宇宙飛行



#理科 #下町ロケット

#宇宙飛行士 #新人間革命

1961年4月12日(水)、日本でも有名な言葉、「地球は青かった」で知られるユーリイ・ガガーリンが、当時のソビエト連邦が開発したボストーク3KA-2に搭乗、世界初の有人宇宙飛行に成功した日です。ガガーリン、27歳での出来事でした。

ガガーリンはパイロットを志し、複葉機の操縦から、Yak-18の訓練を経て、1955年にオレンブルグの空軍士官学校に入校しました。ソビエト連邦空軍でパイロットとして任務にあたる中、訓練を経て宇宙飛行士となりました。

その人生は、空への想いと共にあり、宇宙飛行ののち、続くソ連の宇宙飛行の開発で苦難の時期に入り、英雄を守る意図からか、再び宇宙飛行が認められず、空軍で訓練中に搭乗していたMiG-15の墜落で1968年3月27日(水)、34歳の短い生涯を閉じました。

小説「新・人間革命」8巻 布陣の章より

23  布陣(23)

 テレビ、ラジオなどのニュースは、ソ連が六月十四日午後三時(日本時間午後九時)、男性宇宙飛行士ワレリー・ブイコフスキー中佐を乗せた、衛星船ボストーク5号を打ち上げ、地球を回る軌道に入ったことを伝えていた。

 既に有人宇宙飛行は、二年前の一九六一年四月、ガガーリン少佐を乗せたボストーク1号の成功で幕が開かれており、ボストーク5号の打ち上げは、それほど人びとを驚嘆させるものではなかった。

 しかし、このニュースとともに、ソ連は引き続き、最初の女性宇宙飛行士を乗せた衛星船を打ち上げるであろうとの情報が流れたことから、ソ連の衛星船の打ち上げに、人びとの強い関心が寄せられたのである。

 そして、二日後の十六日午後零時三十分(同午後六時三十分)、ソ連が女性宇宙飛行士を乗せたボストーク6号を打ち上げた――というニュースが世界を駆け巡ったのである。

 その女性宇宙飛行士の名は、ワレンチナ・ウラジーミロブナ・テレシコワ。二十六歳の少尉であった。

 「ヤー、チャイカ(私はカモメ)」

 遙かな宇宙から、テレシコワの明るく弾んだ声が、地上に届いた。

 モスクワ・テレビは、ボストーク6号の船内の模様を放映。画面には、無重力状態のもとでの、彼女の表情が大映しにされた。

 毅然たる意志と、美しい微笑をたたえたその顔は、全世界に知られるところとなった。

 「私はカモメ。地平線が見える。

 明るい青、青い線、ああ地球だ。なんて美しいんだろう。すべて順調……」

 「カモメ」というのは、彼女が地上と交信する際のコールサインである。二日前に打ち上げられたボストーク5号の、男性飛行士ブイコフスキーのコールサインは「タカ」であった。

 この二つの衛星船を打ち上げた目的は、長時間の飛行が、男女の体にいかなる影響を与えるかを調査することであった。

 「カモメ」と「タカ」は仲良く地球を回った。

 ボストーク6号は、七十時間五十分にわたって宇宙飛行し、地球を四十八周。十九日の午前十一時二十分(同午後五時二十分)に無事帰還した。

 一方、ボストーク5号の方も、百十九時間六分の宇宙滞空時間の新記録を打ち立て、地球を八十一周。同日午後二時六分(同午後八時六分)、無事に帰還したのである。

 24  布陣(24)

 世界は、自由の大空に飛翔するかのような、女性宇宙飛行士テレシコワに、大喝采を送った。

 彼女は、ごく平凡な勤労女性であった。

 父親は優秀なトラクターの運転手であったが、彼女が幼少のころ、第二次世界大戦で他界していた。母親は紡績工場で懸命に働きながら、三人の子供を育て上げてきた。

 この困難に屈しない母の背中を見て育った彼女は、十七歳でヤロスラブリ州のタイヤ工場に入り、次いで紡績工場で働いていた。

 その彼女が、宇宙飛行士を志したきっかけは、ガガーリン少佐が乗った衛星船ボストーク1号が、世界初の有人飛行に成功したニュースを耳にしたことであった。

 ″私も、あの宇宙に飛んで行きたい!″

 彼女の胸は躍った。大きな夢が広がった。

 それは、当時の世界の青年たちがいだいた、共通の夢であり、憧れであった。

 夢をもたない青年はいない。夢や憧れをいだくことは、青春の特権といってもいいだろう。

 しかし、その夢を実現していく人は、あまりにも少ない。多くの場合、現実の困難という逆風にあうと、たちまち穴のあいた風船のようにしぼんでしまうものである。

 その現実のなかで、夢に向かって、最後まで飛翔し続けてこそ、夢は現実となるのである。

 彼女は、ボストーク1号の有人飛行が成功を収めたころ、州の航空クラブに所属し、パラシュート降下に熟練していた。この若き紡績技手は、既に大空への大志を、紡ぎ始めていたのであろう。

 もともと、航空クラブに入ったのは、空から故郷の大地を見たかったからだ。

 彼女が最初に大空に舞った時は、風雨のなかの決行であった。不安も恐れもあったにちがいない。

 しかし、彼女は、自らと戦い、大空に飛び出し、心の暗雲を突き破っていったのである。

 以来、テレシコワはますます大空に魅了されていく。そんな時に、ガガーリンの有人飛行成功のニュースに接したのである。

 それから一年もたたないうちに、彼女は、宇宙飛行士部隊の一員に選ばれることになる。

 だが、宇宙飛行士の訓練は、彼女の予想以上に厳しかったようだ。

 激しい肉体的な訓練はもとより、ロケット工学などの専門知識の習得も要求された。毎日が、心身の限界に挑むかのような、苦しい訓練の連続であった。

 25  布陣(25)

 目前の困難が、人間の夢を厳しく淘汰していく。だが、テレシコワは負けなかった。自由時間も勉強にあて、来る日も、来る日も、深夜まで学んだ。

 わからないことは、納得するまで教官や先輩の飛行士に質問した。

 厳しい鍛錬も、粘り強く、愚痴も言わず、黙々とやり抜いた。

 その徹底した頑張りは、宇宙飛行士第一号のガガーリンも、舌を巻くほどであったといわれる。

 しかも、そうした激務のなかでも、故郷の母親に、手紙を添えて仕送りをすることを忘れない、思いやりのある女性だった。

 彼女は、優しく、しなやかななかに、鉄の意志を秘めた女性といえよう。

 冬の寒さに耐えて、美しい花が開くように、努力と忍耐なくして、夢の開花はない。

 テレシコワが宇宙船のなかで見せた、あのふくよかな微笑みは、自らが決めた理想に向かって、死力を尽くした満足の笑みであったのかもしれない。

 学会の女子部員にとっても、テレシコワは、大きな関心事であったようだ。

 山本伸一は、聖教新聞社で女子部の幹部と懇談した折、話題が彼女の宇宙飛行に及ぶと言った。

 「テレシコワさんは、女性も宇宙飛行士として活躍できることを、世界の女性に示した。まさに、女性が社会の第一線で活躍していく時代の、幕を開いた一人といえる。

 日本は、まだまだ男性中心の社会だが、やがて、日本も変わらざるをえない。また、そうしていくためには、女性の側にも、自分は女性なのだからという甘えがあってはならない。

 もちろん、男性の側の問題は数多くあるが、女性もひとたび仕事に臨んだならば、男性以上の仕事をしていかなければ、社会的な面での、女性の地位の向上は図れないと思う。

 それには、確固たる人生観、生き方の哲学がなくてはならないだろうね」