海賊王に、俺はなる!

海賊王に、俺はなる!








3月4日はエンリケ航海王子の生まれた日です

1394年3月ポルトガル国王ジョアン一世の三男として生まれました。

探検事業家として航海者たちに指導と援助を与え、それまで未知の領域だったアフリカ西岸の踏破を達成させたことで、大航海時代の幕を開いたことで歴史に名を残しています

「大航海時代」という言葉を聞いて思い浮かぶのがワンピースです。

ワンピースの物語の冒頭、海賊王ロジャーの処刑シーンから始まり、ナレーションでこのように宣言されます。

富、名声、力・・・この世のすべてを手に入れた男・海賊王ゴールド・ロジャー。彼の死に際に放った一言は、人々を海へかり立てた。

 「オレの財宝か?欲しけりゃくれてやる。探せ!この世のすべてをそこへ置いてきた!!」

 男たちはグランドラインを目指し、夢を追い続ける。世はまさに、大海賊時代!!

このようにワンピースの大海賊時代は海賊王ロジャーの最後の一言により幕を開けましたが

コロンブス、マゼランに先駆けて、大航海時代を切り開いたのが「エンリケ航海王子」です




新人間革命 10巻 新航路の章より

新航路(46)

 十月二十五日の午後、山本伸一の一行は、イタリアのミラノから、次の訪問地である南フランスのニースに移動した。

 ここでは伸一は、彼を訪ねて来た、メンバーの激励をはじめ、予定した仕事を慌ただしく終えると、二十七日には、スペインのバルセロナを経由し、ポルトガルのリスボンに向かった。

 午後一時前にリスボンに到着した一行は、すぐに、市内の視察に出かけた。

 ポルトガルは、日本が最初に出合ったヨーロッパの国であり、鉄砲の伝来をはじめとして、多くの文化の恩恵を受けた国である。


 それだけに、伸一は、この国に、強い関心をいだいていた。

 リスボンの市内で、一番高い丘の上にあるといわれるサン・ジョルジェ城跡に立つと、赤い屋根が連なり、その向こうには、テージョ川、建設中のサラザール橋(現在の四月二十五日橋)が見えた。

 リスボンと、その郊外には、要塞であった石造りのベレンの塔や、ベルサイユ宮殿を模したケルース宮殿など、正本堂を建設するうえで、参考にすべき建物が多かった。

 視察の途中、テージョ川に沿って車を走らせると、帆船をかたどった白大理石の建造物が現れた。



 伸一たちは、車から降りて、見学することにした。

 それは、エンリケ航海王子の没後五百年を記念して、五年前に建てられた、発見の記念碑であった。

 碑の高さは五十二メートルで、エンリケ王子を先頭に、新航路発見に功績のあった学者や冒険家の像が、何人も刻まれていた。

 伸一は、エンリケ航海王子については、戸田城聖からも話を聞き、彼自身も何冊かの関係書を読み、その生涯に大きな感動を覚えていたのである。

 彼は、同行のメンバーに語った。

 「いつだったか、戸田先生が、『ポルトガル人の勇気は大したものだ。私も、あの国に行ってみたい』と、嬉しそうに話されたことがある。

 十四世紀に、チムール帝国の興隆によって、シルクロードが閉ざされ、東洋との交通が遮断されると、ポルトガルは、″陸がだめなら、海がある″と、新しき海の道の開拓を開始した。

 ヨーロッパ大陸の西端のイベリア半島の、さらに、その西端にある資源も乏しい小国であるこの国が、十五世紀には、あの″大航海時代″の突破口を開き、世界に領土をもつ大帝国になっていく。

 では、なぜ、それが可能になったのか」



 47  新航路(47)

 山本伸一は話を続けた。

 「ポルトガルが大航海時代の覇者となっていった最大の功労者が、このエンリケ航海王子なんだよ」


 エンリケは、一三九四年に、ポルトガル国王ジョアン一世の三男として生まれている。

 青年となった彼は、大ポルトガル建設の大志をいだいて、イベリア半島西南端のサグレスで、航海学校を創設したといわれている。

 そこは、大西洋の荒波が寄せ返す、荒涼たる地であった。

 だが、王子もここで暮らし、民族を問わず、航海術や地図作製、造船、地理学、天文学、数学など、さまざまな分野の一流の学者を招いた。

 王子は、ポルトガルの新しき時代を開くには、東洋への新航路を発見しなければならないと考えていた。

 それには、新しき人材が必要であると、粘り強く、育成に取り組んでいったのである。


 人びとは、結婚もせず、新航路発見の礎をつくり続ける彼を、「海と結婚した王子」と呼んだ。

 王子は、この事業のために、次々と財産を注ぎ込んでいった。

 彼は、″大航海″の成功のために、最新の情報、学問、知識を集め、人材を集めた。そして、目的のために、皆の力が有効に発揮されるように、「組織」をつくり上げていった。

 さらに、造船の技術改良を重ね、風に向かって走ることのできる船を開発させたのである。

 しかし、エンリケによって育まれた船乗りが、アフリカ西海岸を、何度、探索しても、新航路を発見することはなかった。

 彼らは、カナリア諸島の南二百四十キロメートルにあるボジャドール岬より先へは、決して、進もうとはしなかったからである。

 そこから先は、怪物たちが住み、海は煮えたぎり、通過を試みる船は二度と帰ることができない、「暗黒の海」であるとの中世以来の迷信を、誰もが信じていたからだ。


 エンリケは叫ぶ。

 ″岬を越えよ! 勇気をもて! 根拠のない妄想を捨てよ!″

 それに応えたのは、エンリケの従士の、ジル・エアネスであった。

 彼も探索の航海に出て、恐怖にとらわれて逃げ帰って来た一人であったが、再度、エンリケから、航海を命じられると、成功を収めるまでは、決して帰るまいと心に決めて出発した。

 そして、一四三四年に、ボジャドール岬を越えたとの報告をもって、王子のもとに帰って来たのである。



 48  新航路(48)

 ジル・エアネスの航海の成功は、小さな成功にすぎなかった。

 カナリア諸島に近い、ボジャドール岬を越えただけであり、新航路の発見にはほど遠かった。しかし、その成功の意義は、限りなく大きく、深かった。

 「暗黒の海」として、ひたすら恐れられていた岬の先が、実は、なんの変わりもない海であったことが明らかになり、人びとの心を覆っていた迷信の雲が、吹き払われたからである。

 「暗黒の海」は、人間の心のなかにあったのだ。エアネスは、勇気の舵をもって、自身の″臆病の岬″を越えたのである。

 ポルトガルの航海者の船は、アフリカ沿岸をさらに南下するようになるが、エンリケは、新航路の発見を待つことなく、一四六〇年に世を去る。

 だが、エンリケによる人材の育成が礎となって、ポルトガルは、喜望峰の発見、インド航路の発見と、ヨーロッパからアフリカを回って東洋に至る新航路を次々と開き、「世界の王者」の地位をつくり上げていくのである。


 山本伸一は、しみじみとした口調で語った。

 「ポルトガルの歴史は、臆病では、前進も勝利もないことを教えている。

 大聖人が『日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず』と仰せのように、広宣流布も臆病では絶対にできない。

 広布の新航路を開くのは勇気だ。自身の心の″臆病の岬″を越えることだ」

 それから伸一は、テージョ川の彼方を仰ぎながら語った。

 「未来を築くということは、人間をつくることだ。それには教育しかない。

 二十一世紀は、民族や国家などの壁を超えて、人類が、ともに人間として結ばれる、″精神の交流の時代″であり、″平和への大航海時代″としなければならない。

 そのために、私も、いよいよ、創価高校、そして、創価大学の設立に着手するからね。私の最後の事業は、教育であると思っている。大切なのは礎だ。

 輝ける未来を開こうよ。黄金の未来を創ろうよ」

 西の空に燃える太陽が、記念碑を赤く染め始めた。

 伸一の顔も燃えていた。

 彼は、自らに語りかけるように言った。

 「時は来ている。時は今だ。さあ、出発しよう! 平和の新航路を開く、広宣流布の大航海に」

 真っ赤な夕日が、微笑んでいるように、伸一には思えた。