クレヨンしんちゃん

クレヨンしんちゃん



#クレヨンしんちゃん

#創価家族 #新人間革命

4月13日はアニメ「クレヨンしんちゃん」が放送開始された日です

アニメは1992年から今日にいたるまで放送され、今年で28年目に突入します。

先日、ものすごく久々に「クレヨンしんちゃん」を観ました。

私が子どもの頃から続いている作品ですが、作品世界の中では時間の流れはほとんど意識されていない。しんのすけは昔から幼稚園児だし、登場人物はほとんど歳をとっていない。せいぜい妹が増えたぐらいでしょう。

野原しんのすけ 5歳 野原みさえ 29歳 そして野原ひろしの年齢は35歳。


そういう私も今年で35歳になる。

いつの間にか野原ひろしと同じ年齢になってしまいました。

子どものころから観ていたクレヨンしんちゃんの野原ひろしと同じ歳になったことに対して、正直、信じることができません。

アニメの中の野原ひろしは

家の中ではみさえに尻に敷かれています。

「日曜日くらいゆっくり寝かせてくれよ〜」って言うひろしの気持ちはすごい共感できます。

野原ひろしと言えば、漫画でもアニメでも、典型的な冴えない中年男性として、容姿も社会人としての実力も、十人並み程度の人間として描かれていたように思える。

しかし、実際には霞ヶ関にある双葉商事という会社で営業2課係長という役職を持ち、埼玉県の春日部に庭付き戸建てを持っている。通勤は電車だが、しっかりと車も所有。連載当時としてはさほど珍しくない生活水準ではあるものの、今にして思えば羨ましい環境に身を置く人物だと、しみじみ感じてしまう。

「野原ひろし程度の男がすごいと思えるほどに日本が貧しくなったということ」?

あるツイートに対して様々な反応が寄せられていたので、ご紹介します。

「当時の日本では普通だったんです……働いていればローンで家と車が買えたんです……」

「僕は野原ひろしのようになれるのでしょうか?」

「野原ひろしがすごいのでは無い。野原ひろし程度の男がすごいと思える程度に日本が衰退、貧困化しただけのこと」

と、こんな感じで、ひとえに時代の変化によって様変わりしてしまった日本の現状を嘆く声が目立つ。

ひろしは、しんのすけやひまわりの面倒見が良く「幸せ」という表現がちょくちょく出てきます。

つまり、子供と遊んでいる際やお風呂に入っている時に幸せを感じるようです。

平凡な冴えないサラリーマンっぽく見せていますが、野原ひろしはびっくりするくらい恵まれています。


本当に理想の家族像です。

私も昔から野原家みたいな家族を作りたいと思っていました。

やっぱり明るくて賑やかな家庭って良いですよね。

家族のつながりが問われる現代ですが、今と昔の家族はどのように変化しているんでしょうか。

サザエさんのようなホームアニメには、他にも「ちびまる子ちゃん」「クレヨンしんちゃん」があります。

放送が始まった年数も違いますし、時代も違うこの3つのホームアニメは時代の流れに沿って家族の形をあらわしてくれています。

まず、サザエさんは、3世帯の昭和の古き良き家族の象徴です。

ちびまる子ちゃんは、2世帯の昭和の中盤の少し豊かになってきた頃の家族です。

そしてクレヨンしんちゃんは、核家族の平成初期の不自由ない暮らしが根付いてきた頃の家族になります。

では、なぜ今の家族は昔と変わったと言われるんでしょうか・・・。

核家族が増えたからという問題だけではなく、その時代に合わせて「人が変わった」ということだと思います。

 これらの底流にあるのは晩婚化と非婚化の進行だ。平均初婚年齢は80年に男性28・7歳、女性25・1歳だったが、2010年にはそれぞれ31・2歳、29・7歳に上昇しました。

生涯未婚率(50歳時点で一度も結婚をしたことのない人の割合)は80年に男性2・6%、女性4・5%だったが、10年にはそれぞれ20・1%、10・6%に高まりました。

 その要因は複合的なものです。高学歴化が進み、働く女性が増えて結婚しなくても生活していける環境が生まれました。

 一方、90年代後半から企業は、人件費抑制から非正規雇用を増やし、経済的な自立が難しい男性が現れた。コンビニや外食産業が発達し、1人暮らしでも不自由さは減り、また、見合いや職場結婚の機会が失われたことも大きいでしょう。


 こうして家族のあり方は多様化へと向かっています。バブル崩壊後の90年代に、自立できず未婚のまま親と同居した若者は中年層にさしかかっている。離婚が増え「ひとり親と子」の世帯も増加しました。もはや中心となる家族のかたちは存在していない。

 夫婦と子の世帯に代わり、現在、最大の割合を占めるのは単身世帯だ。このため総人口は08年の1億2808万人をピークに減少に入ったが、世帯数は増加しています。

 単身世帯を年代別でみると、20代の若い独身層が現在、最も多いが、次に60代の層で多くなっている。今後はこの層が高齢化するため、高齢単身者が増加するのは確実だ。

 単身者は、失業や病気で働けなくなればすぐさま貧困に陥ったり、社会的に孤立したりするリスクがある。日本社会で、居住や家計をともにする「家族」のありかたが大きく揺らぎつつあるのは間違いないでしょう。

ではこれからの時代は、どのような「家族」のありかたが求められてくるでしょうか?


新人間革命14巻 大河の章に、そのヒントが眠っていますので、ご紹介いたします。

キーワードは「創価家族」 「創価の連帯」

小説「新・人間革命」 大河の章より

12  大河(12)

 学会員にとって、何よりも大きな変化は、「タテ線」組織から、「ヨコ線」のブロック組織に移行したことであった。

 既に、前年も、かなり長期のブロック活動期間がもたれ、さらに、この年の三月にも、長期のブロック活動が打ち出されていた。それだけに、移行は円滑に進められた。

 これまでの「タテ線」では、最前線組織として組があり、組―班―地区―支部―総支部―本部―総合本部となっていた。「ヨコ線」の組織では、ブロック―大ブロック―総ブロック―総合ブロック―ブロック本部―ブロック総合本部となった。「タテ線」の地区、支部に相当するのが大ブロック、総ブロックである。

 また、「タテ線」では、男女青年部の組織名称は、壮年、婦人と異なる独自の名称を用いてきた。たとえば男子部では、長い間、分隊―班―隊―部隊といった組織の名称が使われ、この年の一月に、隊をグループに、部隊を部にするなど、新しい時代に即した改称が行われていた。だが、ブロック組織では、男子部も、女子部も、壮年、婦人と同じ、大ブロック、総ブロックなどの名称を使用することになった。

 かつての青年部の組織に、隊や部隊など、いかにも戦闘的な名称が使われていたことから、学会は「軍隊的な組織である」「ファッショだ」などといった、本質から目をそらした、的外れな批判を浴びせられたこともあった。しかし、この名称には、全民衆の幸福を実現する″平和の戦士″たれとの戸田城聖の期待と、その使命を勇んで果たしゆこうとする草創期の男女青年部の、心意気が託されていたのである。

 青年たちは、ブロックへの移行にあたって、意気軒昂に語り合った。

 「組織や役職の名称は変わっても、絶対に革命精神を忘れてはならないと思う。今は新時代の草創期だ。ぼくたちこそ開拓者なんだ!」

 「そうだ。新しい歴史を開くには、これまで以上に、果敢に行動することだ。転換期である今が勝負だ」

 創価の若獅子たちは、″新時代の開拓者″の誇りを胸に、さっそうと活動を開始したのである。

 13  大河(13)

 ブロック組織は、活動の舞台が居住地域であることから、大いに時間を節約することができた。「タテ線」の時には、地区の会合に行くのに、一時間、二時間とかけて通ったという人も少なくなかった。しかし、大ブロックの会合だと、都内では、五分、十分で行ける人がほとんどであったし、交通費もほとんどかからなかった。

 大きな団地だと、そのなかに、総ブロックや大ブロックがあり、「雨の日でも傘を差さずに、会合の会場の家に行ける」と喜ぶ人もいた。皆、以前に比べると、家族が一緒にいる時間も増え、地域に貢献するための時間なども、確保しやすくなった。

 山本伸一は、ブロック組織への移行に際して痛感していたことは、学会員が核になって、日本の社会のなかに、地域的な人間の連帯をつくり上げなければならないということであった。特に、新しい住民が増加の一途をたどる大都市やその周辺では、地域的な連帯意識は至って乏しかった。人間がひしめき合う大都会にありながら、孤独に苛まれる単身生活者も多かった。同じアパートに暮らしていても、隣に誰が住んでいるのかもわからないという人もいた。また、顔を合わせても、あいさつさえしないことも珍しくなかった。

 単身者や核家族の多い都会にあっては、地域が強い連帯の絆で結ばれ、互いに助け合わなければ、人びとの暮らしは、さまざまな面で破綻をきたしかねない。独り暮らしのお年寄りが亡くなっても、何日間も、誰も気づかずにいたという話もあった。近隣の人と、日々の交流があれば、そんなことにはならなかったにちがいない。

 子どもを家に残して、働きに出ている夫婦にとっては、隣人が子どものことを少し気遣ってくれるだけでも、大きな安心となる。

 自分の住む地域が、人間と人間の交流もなく、殺伐としているなら、それは、精神の砂漠に等しい。そこに、真の幸福の花が咲くことはない。地域に、生き生きと、人と人の心が通い合ってこそ、幸福と繁栄の沃野がつくられていくのだ。


 14  大河(14)

 国といい、社会といっても、それを支えているのは地域である。戦時中、軍国主義の日本を支えたのは、全国各地につくられた「隣組」であった。

 十戸ほどを単位としたこの組織は、互助的な役割を果たすとともに、生活必需品の配給などを通して、国家による管理、統制の、強力な末端組織となってきた。この「隣組」が、国を挙げての戦争を可能にしたといっても過言ではない。なかでも、″銃後の守り″の責任を自覚した婦人たちの働きは、目覚ましいものがあった。軍部政府は、母たちの労苦をいとわぬ健気な心と力を、戦争のために利用したのだ。

 戦後は、個人主義の風潮のなかで、人びとは地域での互いの干渉を嫌って、隣近所の付き合いにも、次第に距離を置くようになった。さらに、都市開発や新興住宅地の建設にともなう人口の流動で、地域での人間関係はますます希薄になり、連帯も断たれていった。その結果が、人間の分断であり、孤立化、孤独化であった。

 山本伸一は、近年の世相を見るにつけ、こう痛感してきた。

 ″地域に、互いに守り励まし合い、平和と幸福を創造するための民衆の連帯をつくり上げなくてはならない。そして、今度は、婦人が、平和建設のリーダーとして、大きな力を発揮していくのだ。それが「女性の新世紀」の開幕となるはずだ″

 伸一が、ブロック組織への移行を強く推進してきた最大の理由も、そこにあったといってよい。

 このブロック組織での新しい活動を進める機軸となるのが、大ブロック座談会であった。ブロックへの移行が発表された本部総会から五日後の五月八日には、早くも、大ブロック座談会が開かれた。

 どの座談会にも、新生・創価学会の主体者として、「社会に信頼され、親しまれる学会」を築こうとの息吹がみなぎっていた。皆、座談会をわが地域の人間共和の縮図にしようと、決意も新たに、大前進を開始したのだ。″地域広布″へ、創価の大河は、滔々と流れ始めたのである