麒麟がくる!

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#麒麟がくる #明智光秀

#池田大作全集#忠誠心

【明智光秀の履歴書】


【生年月日】1528年?日?日

【没年月日】1582年6月13日(満54歳)

【性別】 男

【出身】 美濃国(岐阜県)

【あだ名】 キンカン頭

【年表】

1556年 28歳 仕えていた斉藤道三が死亡、美濃を離れる

1568年 40歳 織田信長と足利義昭の間を取りもつ

1569年 41歳 信長不在のスキをつき、三好三人衆が足利義昭の住む寺を急襲。

寡兵をもって立ち向かい撃退に成功する

1579年 51歳 各地を転戦しながらも、丹波攻略を続け八上城、黒井城を落とし平定

に成功。信長より丹波一国を与えられ、国持大名となる

1582年 54歳 本能寺と二条城を急襲。織田信長を討ち取り、京周辺を占領する(本能寺       の変)

  細川家や筒井家の助力を得ぬまま秀吉軍と戦うが敗北。小栗栖付近で落ち武者狩りに          にあい、死亡した(山崎の戦い)

【趣味】 茶の湯 和歌

【仕事ぶり】 信長からの評価は抜群で、出世頭となりました。領民からの評価も高かった

【交友関係】 細川藤孝や筒井順慶とは親密な関係にありましたが、山崎の戦いでは味方してくれませんでした

【好きな言葉】 敵は本能寺にあり



1970.8.6 「池田大作講演集」第3巻

 庶民に人生の姿勢の原点を

 第三に“男”という文字は“田”に“力”と書く。田畑を自らの力で開拓していくというのであります。すなわち、自分の仕事、組織活動等々、あらゆる分野で、どれだけ新しい価値を創造し、開拓していくか――ここに男子の生命、本懐、本源がある。開拓精神を旺盛に燃やし、おのおのの立場で、忍耐強く社会に貢献し、広宣流布に貢献していっていただきたいのであります。


 御書に「然しかるに日蓮は中国・都の者にもあらず・辺国の将軍等の子息にもあらず・遠国の者・民が子にて候」云云とあるように、大聖人ご自身、当時の文化の中心から遠く離れた地に、貧しい、庶民の子としてお生まれになった。

 男というものは、身分や家柄等によってうんぬんされるものでは絶対にない。自分自身の力で、どれだけ物事を切り開いたかが、価値を決定づけるのであります。

 豊臣秀吉と明智光秀に関して有名な話がある。秀吉と光秀は、ともに戦国時代を代表する有名な武将でありますが、その性格はまったく異なっていた。その違いがもっとも顕著にあらわれていたのが、主君・織田信長に対する仕え方であったと論じられている。

信長は、非常に短気で気むずかしく、また合理主義者であった。そのため、家臣の失敗に対しては、たとえ過去に功績があったとしても、即刻、所領没収など厳格な態度で臨んだ。そのやり方が徹底していたため、家臣は、つねに内心ビクビクしていたといわれる。秀吉と光秀も信長の重臣であったが、同じく主君に対しては恐怖心をいだいていた。

 しかし、秀吉についていえば、たとえ信長が極度に気むずかしい性格の主君であっても、自分の過去の困窮時代に比べれば、まだまだ信長に仕えるほうがましだと思ってがまんしていた。

 これに対し、光秀は、戦国武将のなかでは珍しく詩歌にたけるなど、教養も当代一流で、最高の文化人の一人であったといわれる。また、武将としての手腕も優れ、智勇兼備の人であった。

 ところが、光秀には、その手腕と教養を鼻にかけるところがあり、いつもうぬぼれていた。出身も貴族であったため、信長のやり方に対し、ことごとく批判的な目で見ていたわけだ。

 光秀の念頭には、自分は貴族の出身で、信長より偉いのだという、強い自意識がつねにあった。そのため、どうしても本心から信長につききることができない。その不満と反感が心のなかでくすぶり続け、ついに本能寺の反逆となって、諸君がよくごぞんじのように、あの悲惨な最期を遂げたというのであります。

 つまり、秀吉と光秀の違いは、教養や武将としての手腕にあったのではなく、根本的に両者の人生に対する姿勢という、原点からくる相違であった。秀吉は“庶民”にその人生の姿勢の原点をおいた。光秀は“貴族”にその原点をおいた。この“庶民”と“貴族”の体質の差が、戦国乱世を生きぬく武将の“明”と“暗”を分けたのであります。

 いま、乱世のなかにあって戦う男子部は、断じて貴族になってはならない。あくまでも庶民のなかの学会っ子として、庶民の味方として、生涯、泥まみれになって戦っていっていただきたい。その人が真実の、最後の大勝利者となることを確信してほしいのであります。 �A1@