ドラゴンクエスト ステータス(守備力)

ドラゴンクエスト ステータス(守備力)


ドラクエのキャラクターのステータスは

HP、MP、ちから(攻撃力)、みのまもり(守備力)、すばやさ、かしこさ、うんのよさ

で構成されていますが、今回はみのまもり(守備力)に注目してみたいと思います

「みのまもり」はキャラの頑強さを意味します。高いほど敵から受ける物理ダメージが減少する。この値と防具の守備力を足して「しゅび力」となる

守備力が低い状態で何度も何度も攻撃を受ければ、あっという間にHPを削られ致命傷になる。

 味方の人数が少なく、敵の数が多い時ほど、重要なステータスになります。

ただし、【ルカニ系】呪文などで守備力を大幅に削られてしまった場合は要注意。

 影響力が比較的低いからといって決して軽視はできないので油断できません。

そのまま放っておくと思わぬ痛手を負うことが多いため、こちらも素早くスクルトなどで対抗する必要があります

守備力は「鎧」「盾」「兜」を 装備することで上昇します


ドラクエ1で最強の防具はロトの鎧です

ロトの鎧も店では売られておらず、ドムドーラであくまのきしを倒した後に地面を調べることで拾うことができます

【勇者ロト】がラルス王よりロトの称号を賜った後、後世に残した鎧です。まさに海のように青いブルーメタル製の伝説の鎧。

 胸に鳥を象ったロトの紋章が装飾された、重厚なプレートアーマーといった出で立ちで、すべての鎧よりも硬く、呪文や火炎・吹雪などの威力を抑え、身につけるものの体力を回復させ、マホトーンを無効化し、バリアーや毒の沼地から身を守ってくれる。もはや身にまとう結界である。

ドラクエの世界ではロトの鎧が最強の鎧ですが、では私たちが学ぶ仏法の世界で最強の鎧は何か?

それは【忍辱の鎧】です


1988.11.18 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)より

13  尊き弘法を「忍辱」の心で

 次に、弘教を進めるうえで大切となる「忍辱にんにく」の姿勢について、述べておきたい。

 御義口伝には、不軽菩薩ふきょうぼさつの「礼拝住処らいはいじゅうしょ」として「生老病死」「慈悲」など十四箇所が示されている。礼拝住処とは″礼拝する処ところ″との意味で、仏道修行を成就じょうじゅするための基盤となるものである。

 つまり、不軽菩薩が仏道修行を全まっとうする上で、拠より所とした″場″″住処″のことで、十四箇所のうち最後の「忍辱地にんにくじ」について、御書に次のように仰せになっている。

 「既に上慢の四衆罵詈めり瞋恚しんにを成して虚妄の授記と謗ずと云えども不生瞋恚しんにと説く間忍辱地に住して礼拝の行を立つるなり」――すでに上慢の四衆が不軽に対し罵詈瞋恚をなして、虚妄の授記であると謗そしったけれども、不軽は瞋恚を生じなかったと説かれている。ゆえに、忍辱地に住して礼拝の行を立てたことがわかる――と。

 増上慢の衆生が、自分たちが必ず仏に成るであろうとの不軽菩薩の約束はいつわりであると、怒りをなしてののしった。しかし、不軽は、忍辱すなわち忍受してうらまない境地にあって、衆生に対していかりを覚えることもなく、礼拝の行を全うしたのである。

14  戸田先生は、私どもの仏道修行における「忍辱の姿」について、次のように述べられている。

 「折伏は慈悲の行為であり、法施ほうせなのである。その人を尋たずぬれば仏の使いであり、仏よりつかわされたる人であり、仏の事じを行う者である。その位置を考うれば、秀吉、ナポレオン、アレキサンダー等より幾十億倍すぐれる。普賢ふげん、文殊もんじゅ、弥勒みろく等は、遠くよりこれを拝し、梵天帝釈ぼんてんたいしゃく等も、来きたり仕つかうるのである。かかる尊き身をかち得て、折伏を行ずる、われわれの喜びは、何ものにも、たとえようもないものであるべきだ」と──。

 この戸田先生の言葉は、皆さま方が日々懸命に弘教に励んでおられる姿、それがどれほど尊く、崇高なものであるか。また皆さま方お一人お一人が、どれほど偉大な立場にあるか、を示されている。

 末法において一言でも仏法を語り弘めることは、仏の使いとしての使命である。今日、その偉業にまい進している団体は、この地球上に日蓮正宗創価学会をおいてない。皆さま方は、いわば世界の人類の″先覚の道″を歩んでおられるのである。

 さらに先生は、こうも述べられている。

 「しかるに、この行事たるや、難事中の難事なのである。ゆえに、法華経にも、このことをたとえていうのには、須弥山しゅみせんを、足のつま先で投げとばすことよりも、また、枯れ草を背にして、大火のなかにはいって、焼けないことよりも、この折伏を行ずることは、なお至難であると説かれている。なぜかならば、今日、末法の世は、五濁悪世ごじょくあくせとも、三毒強盛さんどくごうじょうの世ともいわれて、すなおに仏意を信ずる者は、皆無かいむの時代だからである。自我偈じがげにも、顛倒てんどうの衆生といって、良き宗教を悪しと思い、悪き宗教を良しと思う者ばかりの世であるからである」

 「われらが、情けをもって折伏するといえども、即座にこれを聞く者は、皆無と思うべきである。反対する、悪口罵詈する。あるときは打擲ちょうちゃくにもあうのであって、水におぼれている者が、救わんとする人の手に、かみつくようなものである。無智にして貪欲どんよく、傲慢ごうまん、いいようのなき衆生を相手にして折伏するのであるから、その至難さはいうばかりもない。さて、はじめは情けをもって折伏するも、前記のような衆生であるがゆえに、凡夫のわれらは、ときによって、自己の尊貴そんきな位置も、崇高なる使命も忘れて、かれらと同等の位置におちいり、口論けんかとなるときもある。かかることは、おのれを汚けがし、大聖人にそむき、釈迦仏教界の菩薩級にも、あざ笑われる仕儀しぎにもなるのである」と。

 そのうえで先生は、「吾人は言う。折伏にあたっては、忍辱の鎧よろいを著きよ、と。無智の者より、悪口罵詈されたならば、われ忍辱の鎧を著きれり、と心に叫んで、慈悲の剣を振るうことを忘れてはならぬ」と結論されているのである。

 折伏は崇高な慈悲の修行であり、無智と憎悪ぞうおの人々による理不尽りふじんな非難や悪口があるのは、御聖訓に照らし当然である。それらに紛動ふんどうされて、自分まで怒りや憎悪の心を起こし、相手と同じ次元に境涯を落としてしまうことは、ひいては法を下げ、御本仏・日蓮大聖人の御心に反することにも通ずる。

 皆さま方は、そうした低次元のことで、成仏の軌道をふみはずすことがあっては断じてならない。心に忍辱の鎧を着て、慈悲の剣をもち、それらを悠々ゆうゆうと見おろしながら、自らの目的に向かって進んでいけばよいのである。この点を、私は強く申し上げておきたい。