産業革命の原動力

産業革命の原動力







今回、Mくんの鉄道講座では鉄道発祥の地である、イギリスの鉄道について紹介していただきました

イギリスは18世紀後半頃からの産業革命の夜明けとともに、海洋や河川の利便のない内陸部でも炭鉱の開発や工業化・都市化が進展し、物資などを大量輸送する必要性が高まっていった。そこで考え出されたのが、鉄道の開業であった。

「欧州の田舎」とさえ呼ばれていた英国が、産業革命以降、第二次世界大戦時まで世界一の隆盛を誇った背景には、鉄道の発展が大きく関与している。そして、その産業革命の原動力となり、鉄道走行を可能にしたのが「蒸気機関」である



 蒸気機関とは、蒸気の圧力を機械的エネルギーに変換する原動機の一つで、ボイラーなどから発生させた高圧蒸気をシリンダー内に送り、その膨張によってピストンを動かし、往復運動へと導いて動力を得るものである。

それまで物を生産する場合、風車・水車の利用や牛馬など動物を使ってできる役務以外は、人間がこつこつと手作業で行っていた。しかし、この蒸気機関の開発によって、単純な反復作業などは機械で代用することができるようになった。

つまり、蒸気機関は「人間に代わる労働力」を人類社会にもたらし、生産力が飛躍的に増したのである。 

蒸気機関のアイディア自体は古代アレクサンドリア時代からあったといわれるが、商業的に実用化されたのは、このニューコメンの蒸気機関が世界最初となる。

ただ、新技術の黎明期にしばしば見られるように、この排水システムは甚だしく効率の悪いものであった。そのため、多くの技術者が蒸気機関の開発・改良に乗り出していくことになる。

そして1765年、ジェームズ・ワット(James Watt 1736~1819)が、現代にも通じる実用的な蒸気機関の発明を成し遂げる。

ワットはニューコメンの蒸気機関の修理をしながら、指摘されていた熱効率の悪さを払拭すべく、様々な実験を重ね、改良に没頭した。そして29歳にして、近代の幕開けを導いた新方式「ワット機関」を誕生させたのである。

(英国に関する特集記事 『サバイバー』より引用)






1990.3.30 スピーチ(1990.2〜)(池田大作全集第74巻)より

9  グラスゴー大学と交流

 きょう、英国・グラスゴー大学学長のフレイザー卿ご一行が、創価大学を訪問された。

 グラスゴー大学は、イギリス・スコットランドにあり、一四五一年に創立された歴史と伝統を誇る大学である。二十一世紀の開幕となる二〇〇一年に、創立五百五十年を迎える予定で、記念祭の準備委員会もすでに発足している。

 現在のグラスゴー大学は、学生数約一万四千人、教員数約千三百人。注目すべき点は、アジア・アフリカ地域を中心として、約二千人もの留学生を受け入れていることである。とくに、フレイザ―学長とシャープ国際部長が中心となり、国際交流の拡大を推進しておられる。

 創価大学からも、昭和六十二年(一九八七年)八月に二人の学生が短期留学して以来、合計十六人の学生が留学し、現在も四人の学生(男性三人、女性一人)が学んでいる。



10  一方、グラスゴー大学からも、これまでモスバッハ教授(心理学)、シャープ教授が来学され、一昨年(一九八八年)には、通信教育部生の「学光祭」の折に、私もお会いしている。

 またフレイザー学長からは、昨年春、招聘状をいただいた。その直後にヨーロッパを訪れたが、サッチャー首相との会見など諸行事のため、訪問することができなかった。そこで、ちょうど首相との会見の日に、創価大学の学長らが訪問させていただいた。

 そのときフレイザー学長から「池田先生には、ぜひとも来学していただきたいのですが、首相会見が大事ですし、私どもからも心からお喜び申し上げます」「いつの日か、ぜひとも日本に行き、創価大学を訪問したい。そして池田先生にお目にかかりたい」と、真心からの言葉をいただいたことをうかがった。

 グラスゴー大学と創価大学の協定は、このような交流のなかであたためられ、昨年十一月に両大学の学長による協定書の署名が終わり、正式にまとまったものである。



11  平等主義、開かれた教育、実学重視

 グラスゴーは、かつて大英帝国時代に″機械の都″といわれた。なかでもグラスゴー大学は、その学術・実学研究の中心的機関としての役割を果たした。

 現在で言う「エンジニア」も、当初は社会的評価の低い職業とされていた。そのエンジニアこそ、社会の発展に必要な、誇るべき専門職であるという「エンジニア思想」は、このスコットランド地方で育てられたのである。

 グラスゴーで育まれた、こうした実学主義・エンジニア思想は、十八世紀後半からの産業革命に大きな影響をおよぼしていった。その要因としては、次のようなことが考えられる。

 十七世紀当時のイングランドでは、神に関する学問(神学)が尊ばれ、「学問は神学の下僕」として、いわゆる″実学教育″を軽視する傾向があった。つまり、職人を育成することや、職人にとって必要な技術の教育などは軽んじられていたわけである。

 また、大学教育そのものも、権威的で広く民衆に開かれたものではなかった。

 そうしたなか、グラスゴーを含むスコットランドでは、中心地ロンドンから離れているため、多くの人々には、華やかで尊いとされた牧師、医師、法律家になる道は閉ざされていた。いきおい、″手を汚して働く″技師や商人として、身を立てるほかなかった。そうした状況に加えて、スコットランドには、能力主義に基づく″開かれた教育″の伝統があったのである。



12  スコットランドの平等主義、開かれた教育、そして実学重視を象徴するものとして、アダム・スミスとジェームズ・ワットの友情物語がある。

 当時、封建的な徒弟制度のなかに取り込まれ、みずからの実力を開きゆく可能性の芽をつみとられていた一職人のワット。スミスはじめグラスゴー大学の教授たちは、その彼の実力を見ぬき、大学の構内に仕事場をあたえて庇護した。スミス教授はしばしばワットの仕事場を訪れ、激励を惜しまなかったという。それがやがて、ワットの蒸気機関の発明となり、産業革命の端緒となったのである。社会的身分の違いを超えて、真理探究のためにつながりあった二人の友情は、見事に結実し花を開かせた――。

 ともあれスコットランドは、当時、一般に冷眼視されていた教育土壌から出発し、逆に産業革命という、新時代の到来に大きく影響をおよぼしていく。――なかでもグラスゴー大学は、幾多の有能な人材を輩出。他の大学をリードする″実学教育″の牽引力であった。


13  グラスゴー大学はまた、世界で初めて工学部が設置された大学である。

 工学の分野はもとより、幅広い分野に優秀な人物を送り出している。

 『国富論』で知られ、″古典派経済学の父″と仰がれるアダム・スミスや、イギリスではニュートンに次ぐ十九世紀最大の科学者として、″近代物理学の父″とされるウィリアム・トムソン。″近代土木工学の父″とたたえられるマコーン・ランキン。さらには一九〇四年にノーベル化学賞を受賞した″近代化学の父″ウィリアム・ラムゼイ等々が、その卒業生である。

 また、私と対談を行っている世界的な生化学者ライナス・ポーリング博士も、同大学で研究をしたことがあり、そこで、″ビタミンC″研究のヒントを得た、といわれている。


14  日本の近代化に多大な貢献

 グラスゴー大学と日本の関係は深く、明治の初期にさかのぼる。当時の日本は、「東洋のイギリス」を合言葉にして近代化・工業化を進めていた。先ほども述べたように、イギリスでは、イングランドよりも辺境のスコットランドで工業化が進んでいた。

 そのスコットランドから、グラスゴー大学出身の若き技術者ヘンリー・ダイアーが来日。彼は西欧の制度を参考にしつつ、イギリスにも例をみない実験的な大学をつくった。それがわが国の工業教育の中心となる工部大学校(帝大工科大学、東京大学の副身)の誕生である。工部大学校の卒業生のなかには、さらにグラスゴー大学に留学して学問と実践を高めようとする者が続出した。

 タカジアスターゼの創製で有名な高峰譲吉は、その第一回の留学生である。その後、グラスゴー大学には、工部大学校の政府留学生や、旧幕臣出身の海軍関係者、さらに明治の指導者の子弟(福沢諭吉の三男、大久保利通の三男、岩崎弥太郎の次男)など、留学生の顔ぶれはきわめて多彩である。

 スコットランドの実学主義、エンジニア思想は、明治期の日本に導入され、日本の産業の発達に大きく影響をおよぼした。その直接の導入者がグラスゴー大学の教授たちなどであった。

 江戸時代の日本は、士・農・工・商という厳しい身分差別で社会体制を維持しており、基本的には職人たちは低い立場のものとされていた。

 ″お雇い教師″といわれたスコットランド人の教授たちは、近代科学の技術とともに、古き思想を打ち破り、新時代の夜明けを開いた思想の息吹をもたらした。その意味から、グラスゴー大学は、日本の近代化のうえで大きな恩人の存在といえる。

こうして、グラスゴー大学は、各国の産業発展の推進力となった。

 大学の使命――それは、権威の人を出すことではない。実力の人、知性の人、そして民衆に奉仕する信念の人を輩出することにある。

 次の時代を担う人間を育て、社会に、世界に送り出すことができるか否か。それは、時代の命運を決する″勝負″ともいえる。

 イギリスの産業革命に、また日本の工業化に貢献してきたグラスゴー大学の歴史は、一つの厳たる勝利の歩みといえよう。