下町ロケット

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#理科 #アウトソーシング

#下町ロケット#池田大作全集

また4月12日は、世界初の宇宙飛行のみならず、他にも2つの、宇宙に関する、大きな出来事があった日でもあります

1つ目が、1981年(昭和56年)4月12日が、スペースシャトルの初飛行。

そして、2つ目が、1955年(昭和30年)4月12日、日本初のロケットである「ペンシルロケット」が、東京の国分寺で、初めて公開実験に成功しました

このように、4月12日は、宇宙に関する出来事が、偶然にも3つ重なっていた日です

日本の宇宙開発の始まりは、1952年の「東大生産技術研究所」の発足からです。その研究所で、故 糸川英夫教授らによって開発されたのが長さわずか23cmの「ペンシルロケット」でした。

大型ロケットを徐々に小型化していったロシアや米国とは対照的に、小型のものから大型化していく方針でスタートしたのです。このペンシルロケットを打ち上げる実験が1955年に行われ、そこから宇宙開発が始まりました。

ペンシルロケットとはその名の通り、鉛筆のような大きさの小さいロケットのこと。

この戦後日本初の小型ロケットは、1954年に予算560万円で開発が開始されました。今から64年前とはいえ、ロケット開発と考えると560万円は少額です。

第二次世界大戦後しばらくの間、日本では航空機の技術開発が禁止されました。それを受けてロケットの開発もストップ。1951年のサンフランシスコ平和条約締結で開発が解禁されましたが、他国に対して大幅に後れを取ってしまいました。


また、莫大なコストがネックになって、ロケット開発の技術を他の産業に応用するという発想が生まれず、しばらくは研究だけにとどまるという状態が続きました。

その後、宇宙開発の研究が進む中、いくつもの研究機関が乱立する事態に陥りました。各機関の連携不足によって開発の停滞や失敗が続いたため、政府は、日本の宇宙産業の信頼回復を目的に各機関を統一、2003年にJAXA(宇宙航空研究開発機構)が発足しました。JAXA発足当初も失敗の連続でしたが、現在では小惑星探査機「はやぶさ」の成功など、日本の宇宙開発の技術は世界から注目されています。

この日本の宇宙産業の技術の高さと効率の良さを、影で支えているのが実は中小企業です。

ロケットや人工衛星には、多くの機器や部品を使います。その数はH-ⅡAロケットで100万点以上。それらの部品を作っているのが中小企業の工場です

宇宙ビジネスにおいては、競争力も問われている現在、三菱重工や三菱電機といった大企業にとって、ロケットや人工衛星の開発に必要な特殊素材、高度な加工技術について、中小企業とのパートナーシップ戦略は欠かせないものとなっています。


2000.9.24 スピーチ(1999.10〜)(池田大作全集第91巻)より

 2  故郷の発展を祈り見つめて

 私は夜、一日の仕事を終え、入浴後、長男とさまざまなことについて、小一時間ほど語り合うのが、日課である。

 必ず、その日の日本、そして世界の各新聞を通し、またインターネットを通し、テレビ・ニュースを通し、読んだ本を通し、種々、情報を報告してくれる。

 先週の日曜日には、日本経済新聞に、わが大田の町工場に光を当てた記事が掲載されていることを、紹介してくれた。(「列島プラザ――東京・大田」、九月十七日付)

 大田は、日本を代表する中小製造業の集積地である。最盛期には、九千を超す工場があった。しかし後継者難に加え、宅地化や、工場の地方分散政策などの影響で、この十五年で、大田から約三千もの工場が姿を消した。

 現在、六千の工場が、「世界の町工場」の再生へ、新しいネットワークづくりに取り組んでいる。すなわち、「工場同士のきずなを深め、あらゆる受注に対応できる態勢を築くことで、大田区は新世紀に世界の″即応工場″を目指す」という内容であった。

 記事には、若き日、私が働いていた「新潟鉄工所」の名前も記されており、大変に興味深く、また感銘深く読んだ。なかなか訪れることはできないが、故郷・大田の繁栄を、私は、いつも祈り見つめている。

 3  大田の工業化は、大正時代から始まった。その先駆けとして、大正七年(一九一八年)に設置された工場の一つが、新潟鉄工所である。

 私は、三番目の兄が勤めていた関係から、昭和十七年(一九四二年)四月、この鉄工所に入社した。十四歳の時である。油にまみれ、汗だくになって、旋盤を扱う危険な作業に、神経を張りつめながら働いた。近くにあった酒井分工場へ出向いたこともある。

 大田は、東京大空襲をはじめ、じつに十九回の空襲にあい、町工場も壊滅状態となった。その焼け野原から、たくましく立ち上がり、今日にいたる発展を成し遂げてきた。

 私も、戦後の一時期、下丸子にあった東洋内燃機に籍をおいた。さらに、戸田先生の経営する日本正学館に勤務する前、蒲田工業会の職員として働いた。

 蒲田工業会は、戦後、蒲田地区近くの中小企業工場の再建と復興を図るために設立されたものである。当時、少しでも、大田の繁栄のお役に立ちたいとの思いであった。


4  厳しい不況に負けずに友が挑戦

 大田には、あらゆる種類の工業部門がそろっているという強みがある。町工場は、経営規模は小さくとも、それぞれが、じつに優れた専門技術を持っている。その技術を生かし合う「多品種・少量生産」の大田の柔軟な生産ネットワークは、世界的に大きく注目されてきた。

 アメリカのNASA(航空宇宙局)が飛ばしているロケットにも、わが大田でつくられた部品が使われているという。

 幾多の困難のなかで、しのぎを削りながら前進しておられる中小企業の創造力とバイタリティーは、まことに素晴らしい。

 厳しい不況にも負けず、わが大田の同志が健闘され、「信心即生活」「仏法即社会」の実証を、見事に示しておられることも、私はうかがっている。

 この大田とよく似た工業都市として、関西の東大阪市や尼崎市がある。海外では、イタリアのミラノを含むロンバルディア州があげられる。(ミラノ市からは池田名誉会長に招聘状が寄せられている)

 また、中小企業を中心とする、活気ある町づくりは、大田をはじめ、墨田、葛飾、秋葉原、中野、早稲田(新宿)などでも行われており、大変に注目を集めている。


 5  中小企業の重要性――これは、アメリカの世界的経済学者・サロー教授も、私と語り合った際(一九九九年十月三十日)、指摘しておられた。中小企業の創造力と成長こそ、日本の経済再生の鍵を握ると、教授は強調しておられた。

 革命的な新技術でリーダーになっていくのは、大企業ではなく、むしろ中小企業であるとは、教授の洞察である。

 またサロー教授によれば、新しい世界で、ビジネスを成功に導く五つの要因の一つは、「グローバルな視野をもつ」ことである。そして、「中小企業でも、インターネットやテレビ会議などの最新の電気通信手段を使って、グローバルに広がるビジネスを築きあげることができる」(レスター・C・サロー『経済探検 未来への指針』島津友美子訳、たちばな出版)と提唱しておられる。

 世界を視野に――まさに現在の大田の町工場の挑戦と一致する。