志村けんから学んだこと②

志村けんから学んだこと②



#志村けん #変なおじさん

#地域包括ケア#新人間革命



「Y君は将来、何になりたいの?」

という幼稚園の先生の質問に対し、幼少時代の僕は次のように答えたのを覚えている。

「変なおじさんになりたい」

そのくらい僕にとって志村けんの存在は大きかった。

今までも有名人の訃報のニュースをみてきたが、今回の訃報は一番ショックかもしれない

『8時だョ!全員集合』はリアルタイムでは見てはいないが、

「志村けんのだいじょうぶだぁ」は毎週お茶の間で観ていた。

その中のコントで登場する「変なおじさん」やスイカの早食いをよく真似したのが懐かしい


3月31日のTBSラジオ「爆笑問題カーボーイ」(火曜深夜1・0)で、お笑いコンビ、爆笑問題の太田光(54)さんと田中裕二(55)さんが 新型コロナウイルスによる肺炎で死去したタレント、志村けんさん(享年70)について「ホント、ダッフンダだよなぁ…」と意気消沈でしのんでいました。

太田さんは 志村さんの死去とコロナの影響がセットで報じられることが 多い現状に 「コロナの危険性を教えてくれたって言うけど、それだけじゃないでしょ… 」と指摘しました。


太田さんは…

「志村けんは、酒飲んでたばこ吸って、若い姉ちゃんと遊んでさ。コントでは、悲しむべき葬式なのに訳わかんないこと言いながら『そうです、私が変なおじさんです』って…。志村さんはそういう、訳の分かんない人を愛してきた訳だし、やっぱり好きなように生きて、楽しく生活しようよってことを教えてくれた。そこが 芸人らしくてカッコよかった…」としのんでいました。

僕の少年時代を振り返ってみると、昔は訳の分からない「変なおじさん」が、私たちが暮らす地域にも居ましたが、最近、見かけなくなったような気がします

「変なおじさん」が地域から居なくなった社会的な背景を考えてみます。

2000年代に入ったころから、私たちが暮らす地域社会は子供たちの安全を守るために様々な安全対策を講じてきました。

 学校正門へ警備員を常駐して子供の安全を確保するとともに、不審者を早期に発見して校内に入れない措置を講じるように訓練をしています。

子ども用の携帯電話が売れ、監視カメラが取り付けられる。各所で安全マップを作られ、防犯訓練や防犯パトロールが始まる。

そういう中で監視が強化され、子どもの安全を旗印に、我々は無意識のうちに、知らない人や地域の雰囲気に合わない人を不審者として排除していく。

理解できない人、得体が知れない人を「不審者」として追いつめているのは、いったい誰なのだろうか。真実を見る目を持ち、真の「共生」の意味を自分のこととして考えなければいけない時代になってきている

社会学者の宮台真司は著書「ウンコのおじさん」のなかで、

子供たちの教育にとって、親でも友達でもない斜めの関係が大事だと主張しています

ただ地方ならまだしも、たしかに東京/大阪のような都会では、そういう存在はなかなか居ない。隣に住んでる人の名前すらわからないのだから

そんな中、宮台氏は子どもたちと一緒に学校まで歩く。子どもは嫌がるけど偶然同じ道を散歩しているだけだと言う。それで電柱や路面に蝋石でウンコを描く。

「ウンコのおじさん」としてあっという間に有名になり、授業参観日に学校に行けば休み時間にはクラス中の生徒たちが「ウンコのおじさんだ!」と叫びながら飛びかかってきます(笑)。

また夏には蝉の羽化を見せました。夜八時以降に蝉が鳴く雑木林に行くと幼虫が土から出てきています。子どもたちに捕まえさせ、家に持ち帰ってカーテンに掴まらせると、二時間で羽化が始まり、四時間で薄緑色の成虫になり、六時間で普通色になる。みんな大感激したそうです。

今の若い親はそのような体験を与える力がないからこそ、人生経験が豊富なおじさんが地域社会に入っていく必要がある。

(宮台真司 著書「ウンコのおじさん」より引用)

創価学会には「変なおじさん」がたくさんいると思います。僕自身、多くのことを学ばさせていただきました。

遊びを教えてくれたり、ときには他人の子供でも叱る。

私たちが暮らす地域社会にそうしたおせっかいのおじさんが居てもいいのではないでしょうか?




小説「新・人間革命」28巻 広宣譜の章より

20  広宣譜(20)

 東北が生んだ文豪・高山樗牛は叫んだ。

 「君、歌へ、大に歌へ。理想を歌ひ、人道を愛し、進歩を信じ、無窮に進む、是れ詩人たる君が天職也」(注)と。

 七月八日付の「聖教新聞」には、壮年部の新部歌「人生の旅」の歌詞と楽譜が紹介された。

 山本伸一が、八月二十四日の「部の日」をめざして進む壮年部の奮闘を期待し、部歌を作詞作曲して贈ったのである。


 一、彼の峰も あの坂も

   ああ幾山河 妻子と共に

   光求めて 苦楽を越えて

   いざや来たらんや 暁仰げば


 二、あの風も この雪も

   ああ幾歳か たどりたる

   今に厳たり この生命

   ああ鐘は鳴る 幸の城には

 三、彼の人も あの友も

   ああ幾百万 旭日に揃わなん

   元初の炎は 消えるなく

   讃え謳わなん 誉れの門出と

 壮年は、一家の大黒柱である。社会の黄金柱である。

 人生経験が豊富で、社会の信頼を勝ち取ってきた壮年が、地域建設に立ち上がる時、広宣流布は大きく加速していく。

 日蓮大聖人御在世当時を見ても、富木常忍、大田乗明、曾谷教信らの壮年信徒が、門下の中心となり、地域広布を担ってきた。

 壮年が、率先垂範で広宣流布を推進していってこそ、学会の重厚な力が発揮され、社会に深く根差した運動を展開していくことができるのだ。

 たとえば、学会の最前線組織である各ブロックに壮年の精鋭五人が集い、団結のスクラムを築くならば、地域を支える堅固な新しい柱が立つ。その柱が林立すれば、地域社会に、未来を開く創造と励ましのネットワークを広げることができよう。壮年の力で、足下から幸の園を開くのだ。

21  広宣譜(21)

 山本伸一は、二十一世紀を見つめていた。

 日本人の平均寿命は、年々延びている。それにともない、学会員の男性の場合、男子部よりも、壮年部として活動する期間がますます長くなっていく。

 やがては、壮年部歴四十年、五十年という時代も来るにちがいない。

 つまり、人生の半分以上を壮年部員として活動することになるのだ。

 そして、そのなかで、定年後は、多くの人たちにとって、地域が一切の活動の舞台となる。

 伸一は、壮年部が地域に積極的に関わり、活躍する時こそ、地域広布の総仕上げの時代であると考えていた。

 学会にあっては、草創の時代から、地域での活動の推進力は、主に婦人であった。家事や育児などに追われながら、学会活動に励むとともに、隣近所のために心を尽くし、交流を重ね、地域に信頼の基盤を広げてきた。

 しかし、二十一世紀には、いよいよ壮年部が、本格的に地域へ躍り出る時代が到来するのだ。

 壮年の力で、学会の盤石な組織を築き上げ、さらに、地域社会のかかえるさまざまな問題の解決にも真っ向から取り組み、わが地域に人間共和の城を築き上げていくのだ。

 かつては、定年後の生活を「余生」ととらえる人が多かった。

 しかし、これからは、長年培ってきた力をもって、地域に、希望を、活力を与える「与生」であらねばならない。

 仏法即社会であり、地域広布即地域貢献である。

 一人ひとりが、地域のため、人びとのために、何ができるかを考え、果敢に貢献の行動を起こしていくなかに、幸せの拡大があり、広宣流布の建設もあるのだ。

 日蓮大聖人は仰せである。

 「一切衆生の異の苦を受くるは悉ことごとく是れ日蓮一人の苦なるべし」

 人びとが苦しむ問題があれば、それをわが苦ととらえ、その解決のために奮闘していくのが、仏法者の生き方といえる。

 壮年が、その使命を自覚し、地域建設の中核となり、推進力となっていってこそ、わが地域の建設も、繁栄も、勝利もある。